不思議な感覚





全てから漂う平沢進感。


年越し前に言っておきたい。

これは誰にも伝わらないのだろうが…

今の世界は物質文化から精神文化にシフトしつつあるのではないだろうか?


と言いつつも、未だ、世の人々は真新しいアイテムに釣られ、物を蓄え続けてはいる。
実際、この僕もそうだ。

ただ、ここで言いたいのはミニマリストだかいう、世にも奇妙なお寒い人達のことではない。

僕が言いたいのは物質文化の衰退ということではなく、精神文化の発達である。
しいては精神文化の発達とは、デジタル技術の進化によるものということだ。


今やスマートフォンは生活に欠かせない必須ツールであることは誰しもが百も承知であろう。
小学校就学前の幼児ですら、その操作方法を知っているのだから驚かされる。


デジタル技術といえば、僕の時代で言えばTVゲームとパソコンだった。

パソコンに関して言えば、僕が知るはるか前から存在していたし、僕が触れるようになったのもかなり後発だろう。

TVゲームに関して言えば、ファミコンに始まり、スーファミとか、幼少期を語る上で思い出深いツールだ。

これらは本体有りきのもので、そこにソフトを入れ込むことによって拡張性を持つ。

スマートフォンに関しても同様ではあるが、PCと比較すると設定等の必要操作は整理され、より簡易に仮想世界にアクセスできる。また、TVゲームと比較するとソフト導入のコスト、労力も障壁が低い。

表現し難いところではあるが、スマートフォンはあまりにも融通が効きすぎて道具や機械というその実体を意識させない気がする。


僕がPCの仕組みを全て承知して操作している訳ではないが、ある程度のイメージはもっている。

だから、前述のとおりスマートフォンにしてもPCにしても、アプリケーションやソフトは本体有りきの存在であり、箱と中身という分離したイメージが切っても切れない。


ときに、以前、小学生だった親類の子から変わった話を聞いた。
あれはニンテンドーDSが流行っていた頃、今時の子供達の遊び場は公共施設や雑居ビルの陰だという。

町から子ども達の遊び場が消えたからか?

否、これはなんのことない、ニンテンドーDSでオンライン対戦をするためだという。
ロックのかかっていないWi-Fiスポットを誰かが見つけ出し、友達の輪を通じ自然に子供達がたむろするようになったのだという。

当然、小学生だからインターネットの理屈は理解していないが、誰から教わったのか接続に関する手段だけが広く伝承されたらしい。

数年前に入社した後輩はPCの操作が全くできなかった。(大卒だがどうやって卒業したのだろう?)
だが、スマートフォンに関して言えば、最先端のアプリケーションを操作し、その順応性は高いものだった。

そんな彼は、僕が歩いて1分の席にいるにもかかわらず、決して訪ねてくることなく、LINEで「昼飯食べにいきませんか?」と話しかけてくる。
ちなみにいうと、その職場は別に私語をし辛い環境にある訳ではない。

そう聞くと、今時とはいえない諸先輩は「失礼な奴だ」と思うだろう。

ただ、僕は前述の小学生の話を聞いて以来、漠然と思っている本日のテーマに帰納される気がする。

繰り返すが、彼らにとってインターネットという仮想世界は、スマートフォンの便利さ故に、設定等のテクニカルなものが簡略化され、手段だけ知っていれば誰でもアクセスできるより近しいものになっている。

僕はこうした話を通じて、彼らには僕らとは違う平行世界をもっており、後輩の例でいえば、彼はスマートフォンの中の仮想世界で僕と会って「昼飯食べにいきませんか?」と話かけているのだ。

つまり、デジタル技術というものは、僕が認識する単に箱と中身により成り立つのではなく、スマートフォン等のツールによって仮想世界と交信するための入り口を開く「儀式」であるのだ。


宗教には神やそれに準じた存在が欠かせないが、その遥か高みの存在と我々人間がコンタクトを図ることは容易ではなく、代々伝わる儀式を執り行うことで入り口が開かれる。

そもそも、神とは人間にはどうしよもないことや、人知を超えたものを説明する上で、仮定した観念である。

だから、人間は神(人知を超えたもの)の実体を知り得ないが、その存在は認識しており、神と交信するための手段を編み出し、それを仲間に伝えている。


なにもスマートフォンが宗教だとは言わない。
実際、仮想世界に崇拝すべきものが必ずしもある訳ではない。
ただ、とても似通っている。
なお、そのもの自体を知り得ないが、解決の手段を知っているというのは、デジタル技術だけではなく、生きていく上であらゆる場で遭遇する。

例えば、木に火をつければ燃えることは知っているが、何故燃えるのかは知らない。
だからといって、この一連の過程が宗教であるかと言えば、それは間違いである。

デジタル技術と言うものが仮想世界という、具現化され得ないものであることが宗教に近いと考えるところだ。

話は戻るが、精神文化の発達だが、まさにこのスマートフォンを代表するデジタル技術の簡易化によるものである。

ニュースでは「SNSの闇」等と特集され、未成年が大人の餌食になっているという話題を頻繁に聞く。
しかしながら、未成年が大人の餌食になるのは、SNS等の仮想世界に限ったことではなく、現実世界でもままにあり、彼らが社会の汚さを知らないがためである。

ただ、SNSがイジメを助長しただとか、炎上してメンタルを毒された等というニュースは特徴的だと思う。
仮想世界が並行的に、実生活の延長線上に存在しているのだ。


結論であるが、僕はこの現象が新たな概念の誕生であると思う。
素晴らしいことでは有るが、宗教のように神に触れることが目的ではなく、仮想世界に自分が存在することが目的であることが不安になる。

というのも、存在するためには常に繋がっていなければならないじゃないか。

トラブルが起きる機会も増えるし、なんといっても人と繋がることは疲れるからね。

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干しダラ戦記





1983っていうバンドらしい
往年のキリンジみたいで気に入った。

それはそうと、ポルトガルにはバカリャウなる素材があるそうだ。

調理法はトマトベースのスープにバカリャウとか野菜を入れて煮込んで食べるのがポピュラーだとか…

このバカリャウとは干しダラのこと。

うん?
トマトベースという要素を除くと日本で言う鱈チリだね。

ポルトガルといえばカステラ、天ぷら等の日本食の起源を有する国
まさか、鱈ちりもポルトガル由来?


先日、知人の奥様からスケソウ鱈を20kgもらった。
本数にすると、なんと27本。

数すらまともに数えられない僕ですから
両手、両足の指とオチンチンを駆使しても足りないので、うちのお母さんに指を6本貸してもらって、ようやく数え切ることができました。

そういえば借りた指まだ返してないなぁ。

量は暴力

親戚におすそ分けしてもなお10本。
鱈ちり用に4本さばいてみたものの、それだけで冷蔵庫と冷凍庫はいっぱいに


この打開策として
仕方ない!干しダラを作ろう!と思い立ち
早一週間

干しダラとは頭と内蔵を取った鱈を塩水に漬け、寒風吹きすさぶ屋外に吊るしておくだけでできるはず

それなのに、未だ「干し」の感じが出てこない。

北海道は連日氷点下の世界。

夕方から朝方にかけてカチンコチンに凍り、日中は陽光で半解凍に

こんなサイクルを7回も繰り返しているが、未だ水分を多く含み、乾物の様相をなしていない。

今のところ匂いはしないが、このまま腐ってしまうのだろうか…

いっそ、カラスに食べられてしまったほうが気が楽だ。

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